大分県の偉人

別府湾エリア宇佐・国東半島エリア日田・耶馬エリア竹田・奥豊後エリア

別府湾エリア (大分市・別府市・日出(ひじ)町)

・大友 宗麟(おおとも そうりん)

1530年1月31日(享禄3年1月3日)から1587年6月11日(天正15年5月6日)
現在の大分市出身
キリシタン大名

功績ほか
・天正遣欧少年使節派遣
・日本初の西洋医学病院建設

観光スポット
・大分市 大友宗麟像
・津久見市 宗麟公園
大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後府内(現在の大分市)に生まれました。
家督争いである二階崩れの政変により負傷しましたが、その後大友氏の家督を相続し第21代当主となりました。
海外貿易による経済力に加え立花道雪・高橋紹運・立花宗茂父子など優れた家臣に恵まれ、一時は九州6か国を平定し九州最強の大名として君臨、現在の大分市発展の基礎を作りました。

21歳のとき、豊後(現在の大分県)へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルを引見したことによりキリスト教への関心を強め、洗礼を受けたキリシタン大名としても有名です。
53歳のとき、天正遣欧少年使節に伊東マンショを名代として派遣。また領内に、宣教師が伝えた西洋医学の病院を作り、領民に無料で診療を提供しました。現在、大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っています。

56歳のときにはには島津家久軍に戸次川の戦いで破れ、豊後府内を奪われましたが臼杵(うすき)城に籠城。
大友はキリスト教徒もそうでない者も城に避難させ自ら握り飯などを配る一方、大砲「国崩し」を使って臼杵城を死守しました。

病のため津久見で逝去。享年58(満57歳没)。

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・高山 辰雄(たかやま たつお)

1912(明治45)年6月26日から2007(平成19)年9月14日
大分市出身
日本画家

代表作
・浴室
・食べる
・日・月(六曲屏風)
・草原の朝

観光スポット
・大分市 大分県立芸術会館、大分市美術館
少年時代は大分市春日浦の海辺にある実家から、別府湾や彼方の四国をながめて育ちました。18歳のとき東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学します。在学中から松岡映丘の画塾に入り師事し、22歳のときには第15回帝展に初入選を果たすなど、早くからその才能を発揮します。

23歳のとき東京美術学校を首席で卒業。卒業後も研究団体「瑠爽画社(るそうがしゃ)」や「一采社(いっさいしゃ)」に加わり新しい日本画の創作に取り組みました。

34歳のとき第2回日展に裸婦2人を描いた「浴室」を、37歳には「少女」を出品し、ともに特選に選ばれます。この後、独自の幻想的な画風へと展開させ、日本画革新の旗手として伝統に固執しない独自の画風を確立しました。

63歳から65歳まで日展理事長を務め、任期満了後は日展常務理事、顧問となりました。67歳のとき文化功労者、70歳のときには文化勲章を受章しています。77歳のとき東京国立近代美術館で大規模な個展を開催し、健在ぶりを示しました。

画集に「高山辰雄」(日本経済新聞社)などがあります。人間存在を追求した人物画に優れているとの評価を受けた画家です。

肺炎のため東京都世田谷区の自宅で逝去。享年96(満95歳没)。

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・福田 平八郎(ふくだ へいはちろう)

1892(明治25)年2月28日から1974(昭和49)年3月22日
大分市出身
日本画家

代表作
・漣(さざなみ)
・筍(たけのこ)
・鸚哥(いんこ)

観光スポット
・大分市 大分県立芸術会館、大分市美術館
大分市王子町に生まれました。印に「馬安」を用いますが、父・母の名前にちなんでいます。数学が苦手で中学進学に失敗しますが、元々絵を描くのが大好きだった福田は恩師に才能を見込まれ、大分県を離れ京都の美術学校に編入します。

京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)卒業後、第1回帝展に「雪」が入選。さらに29歳のとき第3回帝展に出品した「鯉」が特選となり、宮内省(現在の宮内庁)が買い上げ、一躍画壇の寵児となりました。

40歳のとき最も著名な代表作「漣」を発表。この作品は魚釣りに行ったときの、池面に映る水面の模様を描写した作品です。
44歳のとき京都市立絵画専門学校教授となりました。69歳のとき文化勲章受章。

画集に「日本の名画 22 福田平八郎」(中央公論社)、「福田平八郎」(光村推古書院)などがあります。鋭い観察眼を基にした、対象がもつ雰囲気、美しさを抽出した表現が作品の特徴です。生涯「水」の動き、感覚を追究していたとされる画家です。
出身地の大分市には福田にちなんだ「福田平八郎賞大分市小中学校図画展」という絵画展があります。

急性肺炎のため国立京都病院で逝去。享年83(満82歳没)。従三位を追贈されました。

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・村山 富市(むらやま とみいち)

1924(大正13)年3月3日から
大分市出身
政治家

功績ほか
・第81代内閣総理大臣
・日本社会党委員長(第13代)
・初代社会民主党党首

観光スポット
・大分市(郷里)
大分市の漁師の家に11人兄弟の6男として生まれました。 14歳で大分高等小学校卒業後上京し、昼間は機械工場や印刷所で働きながら夜間は東京市立商業学校に通い、19歳のとき旧制明治大学専門部政治経済科に入学しました。20歳のとき学徒出陣で入隊し、21歳のとき終戦を迎えました。

22歳で明治大学卒業後、大分県職員労働組合書記を経て日本社会党に入党、大分市議、大分県議を経て、48歳で衆議院議員となりました(当選8回)。党内では右派に属し、67歳で国会対策委員長に就任、69歳のときに山花貞夫氏の後を受けて社会党委員長に選ばれました。

70歳のとき羽田孜内閣の総辞職後、第81代首相に就任しました(71歳まで在任)。
戦後50年首相談話を発表していわゆる戦後問題に一定の決着をつけたり、被爆者援護法の制定や水俣病問題の解決などの政策で弱者救済に一定の成果を出したりする一方、阪神淡路大震災では初動態勢の遅れから、政府の危機管理が問われました。

76歳のとき政界を引退。功労により、桐花大綬章を受章しました。

日米安保条約を否定し自衛隊を憲法違反としていた野党第一党が急転直下、日米安保条約肯定の上自衛隊合憲に路線を転換したことから、「日本の政治を変えた」といわれています。

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・稲尾 和久(いなお かずひさ)

1937(昭和12)年6月10日から2007(平成19)年11月13日
別府市出身
プロ野球選手(投手)

功績ほか
・史上最多タイとなるシーズン42勝達成
・8年連続20勝達成
・ニックネーム「鉄腕」、「神様、仏様、稲尾様」

観光スポット
・別府市 稲尾記念館(別府市民球場内)
大分県別府市北浜出身。漁師の7人兄弟の末子に生まれました。13歳のとき別府第三中学校(現在の別府市立中部中学校)に入学し野球部に入部しました。

18歳のとき大分県立別府緑丘高等学校から西鉄ライオンズに入団。1年目から最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得し、2年目にはプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど35勝を挙げ、史上最年少でのリーグMVPに選出されました。

21歳のとき読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは、第1、3戦に稲尾を先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれました。しかし第4戦、3たび稲尾は先発投手に起用されシリーズ初勝利。第5戦にも稲尾はリリーフ登板し、シリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放ち勝利投手。さらに第6、7戦では2日連続完投勝利し、逆転日本一を成し遂げました。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊りました。

24歳のときには42勝をマークし、26歳にはプロ入りから8年連続で20勝以上を挙げ、「鉄腕」の名をほしいままにしました。32歳のとき現役引退。その後は監督や野球解説者として活躍しました。

がんのため福岡市内の病院で逝去。享年71(満70歳没)。旭日小綬章を追贈されました。

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宇佐・国東半島エリア(宇佐市・豊後高田市・杵築(きつき)市・国東(くにさき)市・姫島)

・双葉山 定次(ふたばやま さだじ)

1912(明治45)年2月9日から1968(昭和43)年12月16日
本名:龝吉 定次(あきよし さだじ) 
現在の宇佐市出身
大相撲力士第35代横綱

功績ほか
・幕内69連勝達成
・時津風部屋開設
・名言「われ未だ木鶏たりえず」

観光スポット
・宇佐市 双葉の里、双葉山生家
大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)に生まれました。5歳のときに負傷して右目が半失明状態になりました。13歳のとき家業の海運業を手伝って船に乗った際に遭難して負傷し、右手小指も不自由となりました。

天津小学校卒業後、14歳で立浪部屋に入門。19歳のとき新十両に昇進しました。持前の粘り強さで23歳より勝ち星を続け、前頭から横綱まで一気にのぼりつめ、26歳で前人未踏の69連勝の偉業を成し遂げました。

29歳のとき現役力士のまま弟子の育成を許されたため、立浪部屋から独立して福岡県太宰府市に「双葉山相撲道場」を開設。のちに時津風部屋となりました。33歳のとき引退。幕内通算成績は、31場所で276勝68敗1分33休、勝率8割2厘。
50歳のとき紫綬褒章を受章。

双葉山は不屈の努力と強い精神力で相撲に精進し、空前の相撲ブームを巻き起こしました。木鷄(もっけい・「荘子」に書かれている鍛えられた闘鶏が木彫りの鶏のように静かであるさま)を目標に相撲道に精進し、昭和屈指の大力士となりました。70連勝を逃した折の名言「われ未だ木鶏たりえず」は有名です。

劇症肝炎のため東京大学医学部附属病院で逝去。享年57(満56歳没)。従四位勲三等旭日小綬章を追贈されました。

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日田・耶馬エリア(中津市・日田市)

・福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち)

1835年1月10日(天保5年12月12日)から1901(明治34)年2月3日
啓蒙思想家

功績ほか
・慶応義塾創設
・著書「学問ノスゝメ」、「文明論之概略」
・壱万円券の肖像

観光スポット
・中津市 福沢諭吉記念館、福沢諭吉旧居
大坂(現在の大阪市)の中津藩蔵屋敷で豊前国中津藩の下級藩士の末子として生まれました。
1歳6か月のときに父が死去したため、母や兄姉とともに郷里の中津に帰り少年時代を過ごしました。

14、5歳のときに勉学を始め、福沢の学問の基本となる儒学と出会いました。19歳のとき長崎へ遊学して蘭学を学び、儒学と蘭学の道を経て思想家へとなります。

25歳のときに勝海舟らと一緒に咸臨丸で、軍艦奉行・木村摂津守の従者として渡米しました。帰国後、広東語・英語対訳の単語集「華英通語」の英語にカタカナで読みつけ、日本語の訳語を付記した「増訂華英通語」を出版します。「V」に「ヴ」などの文字を用いており、この表記は現在でも一般的です。

33歳のときに慶應義塾を開き教育活動に専念しました。その後、塾生の激減により財政難に陥りましたが、寄付などによって危機を乗り越えました。

55歳のときに最初の私立総合大学「慶應義塾」に文学、理財、法律の3科を置く大学部を設けました。その後、北里柴三郎の伝染病研究所を設立したり、中津の景勝・競秀峰(きょうしゅうほう)を自然保護のため買い取ったりしました。

脳出血のため東京府芝区三田(現在の東京都港区三田)の自宅にて逝去。享年68(満66歳没)。

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・筑紫 哲也(ちくし てつや)

1935(昭和10)年6月23日から2008(平成20)年11月7日
日田市出身
ジャーナリスト

功績ほか
・「朝日ジャーナル」編集長
・TBSニュース番組「筑紫哲也 NEWS23」メインキャスター
・日本記者クラブ賞

観光スポット
・日田市(郷里)
大分県出身ながら父の仕事により幼い頃を東京で過ごしましたが、戦時中の疎開で父の郷里の大分県日田郡小野村(現在の日田市)で、9歳から12歳までの3年あまりを過ごしました。

23歳のとき早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、朝日新聞社に入社し政治部に配属されました。米統治下の沖縄特派員を経てワシントン特派員となりウォーターゲート事件などを取材してきました。
49歳からの「朝日ジャーナル」編集長時代には、企画「新人類の旗手たち」が話題になり「新人類」は流行語となりました。

54歳からTBSのニュース番組「筑紫哲也 NEWS23」のメインキャスターを務めました。TBSがオウム真理教幹部に坂本弁護士のインタビュー映像を見せた問題では、「TBSは死んだに等しい」と発言、自らが所属する局を厭わず批判した姿勢が大きな反響を呼びました。
日米関係や沖縄米軍基地問題などに詳しく、「週刊金曜日」編集委員なども務めました。

作曲家滝廉太郎は大伯父にあたり、竹田市の滝廉太郎記念館の名誉館長を務めていました。
自身がふるさとと呼ぶ日田市では自ら主宰した市民大学「自由の森大学」の学長を務め、郷里の人材育成に貢献しました。

肺がんのため東京都内の病院で逝去。享年74(満73歳没)。

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・前野 良沢(まえの りょうたく)

1723(享保8)年から1803年11月30日(享和3年10月17日)
豊前国中津藩(現在の大分県中津市)藩医・蘭学者

功績ほか
・杉田玄白らとともに「解体新書」を編纂
・著書「蘭学階梯」、「魯西亜本記略」

観光スポット
・中津市 中津市歴史民族資料館分館村上医家資料館
筑前藩(現在の福岡県)藩士、谷口新介の子として江戸に生まれました。幼い頃に孤児となり、大叔父の宮田全沢という淀藩(現在の京都市伏見区淀本町)の医官に育てられました。宮田は前野に「他人が捨てて顧みないようなことに愛情をもち、世に残すよう心がけよ」と説き聞かせていました。

46歳のとき当時誰も見向きもしないオランダ語を学ぶために、青木昆陽の門をたたきました。更にオランダ語を深く学ぶために、翌年、蘭方医で通訳でもあった吉雄耕牛の門下生として長崎に留学しました。

49歳のとき留学中に入手した「ターヘル・アナトミア」を持参して、杉田玄白、中川淳庵らと解剖を行い、解剖図と実際の解剖所見の一致に大いに感動し、翻訳作業が開始されました。辞書もない状況の中で翻訳作業は大変難航し、3年あまりかかった52歳のとき、ようやく西洋医学書の初の邦訳書「解体新書」が出版されました。翻訳は前野を中心になされましたが己の学問が未熟であると考え著者に名を連ねてはいません。杉田玄白は当時の苦労話を「蘭学事始」として記録し、福沢諭吉は前野たちの苦労は涙なしには語れないと述べています。
その後は医学以外にも物理、歴史、築城など多方面の蘭書の翻訳に打ち込みました。

享年81(満80歳没)。

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・広瀬 淡窓(ひろせ たんそう)

1782年5月22日(天明2年4月11日)から1856年11月28日(安政3年11月1日)
現在の日田市出身
儒学者・教育者

功績ほか
・咸宜園創設
・敬天思想

観光スポット
・日田市 咸宜園跡、広瀬資料館、桂林荘公園
豊後国日田郡豆田町(まめだまち、現在の日田市豆田町)の博多屋三郎右衛門の長男として生まれました。少年の頃より聡明で、10歳のときより師事して詩や文学を学びました。

16歳のときに筑前(現在の福岡県)の亀井塾に遊学しましたが、大病を患い19歳のとき退塾し帰郷。病は長引き一時は命も危ぶまれたものの、医師倉重湊によって命を救われ、倉重の忠言により教育者の道を選びました。

24歳のときより私塾成章舎を開き、26歳で桂林荘を建て、36歳のとき場所を移し咸宜園と名を改めました。病身のため、近隣の藩に招かれた以外はほとんど日田で過ごし、子弟教育に力を尽くしました。61歳のときには子弟の教育が広く及んだ功を賞せられて、永世苗字帯刀を許され日田代官所に直属することとなりました。

咸宜園は広瀬の死後も歴代10名の塾主によって運営され、入門者は女性も含め4800名の日本最大級の私塾となりました。身分を問うことなく塾生になれるものの実力主義の厳しさがあり、四書五経のほかにも数学や天文学、医学といったさまざまな学問分野にわたる講義が行われました。
広瀬の説いた「人間は正しいこと、善いことをすれば天から報われる」とする応報論は、「敬天思想」と呼ばれます。

享年75(満74歳没)。

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竹田・奥豊後エリア(竹田市・豊後大野市)

・瀧 廉太郎(たき れんたろう)

1879(明治12)年8月24日から1903(明治36)年6月29日
音楽家・作曲家

代表作
・荒城の月
・箱根八里
・花(組曲「四季」の第1曲)

観光スポット
・大分市 遊歩公園
・日出(ひじ)町 暘谷(ようこく)城址
・竹田市 瀧廉太郎記念館、岡城跡
東京府芝区南佐久間町(現在の東京都港区西新橋)に生まれました。
瀧家は江戸時代、豊後国日出藩(現在の大分県速見郡日出町)の家老職であり、 父・吉弘は維新後内務地方官として現在の神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市などを移り住み瀧も一緒に各地を回ることになりました。少年期を山紫水明の故郷竹田で修学し、岡城を絶好の遊び場とし、四季に移ろう自然の中から音楽の天分を育みました。

15歳になると東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学します。20歳のときに代表作である名曲「荒城の月」を完成させました。この曲は竹田市の岡城を素材としており、文部省編纂の「中学唱歌」に掲載されました。21歳の10月には東京市麹町区(現在の千代田区)の教会で洗礼を受けてクリスチャンになっています。
また、21歳の4月になるとドイツのライプツィヒ音楽院に留学しますが、2か月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされました。帰国後は父の故郷である大分県で療養していました。

翻訳唱歌中心の明治期に日本語でのオリジナル曲を作曲するなど、明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人です。

肺結核のため大分市稲荷町(現在の大分市府内町)の自宅で逝去。享年25(満23歳没)。

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・朝倉 文夫(あさくら ふみお)

1883(明治16)年3月1日から1964(昭和39)年4月18日
現在の豊後大野市出身
彫刻家

代表作
・墓守(国指定重要文化財)
・大隈重信像
・翼の像

観光スポット
・大分市 遊歩公園
・日出(ひじ)町 暘谷(ようこく)城趾前
・豊後大野市 朝倉文夫記念館
・竹田市 岡城跡
大分県大野郡上井田村(現在の豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれ、10歳のときに朝倉種彦の養子となりました。入学した尋常中学校を3回も落第したため、母の薦めで9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻選科に入学しました。

27歳のとき最高傑作ともいわれる「墓守」発表。その後も文展で連続上位入賞を果たし、第10回文展においては34歳の若さで最年少審査員に抜擢されるほどでした。

38歳で東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並び日本美術界の重鎮となりました。51歳のとき、アトリエを改築し「朝倉彫塑塾」(後の朝倉彫塑館)を作り後進の育成に励みました。61歳には従三位、勲四等瑞宝章などを受章。

同郷の瀧廉太郎(たきれんたろう)は先輩にあたり、朝倉文夫記念館、大分市遊歩公園、旧東京音楽学校奏楽堂などに朝倉が製作した同型の瀧廉太郎の銅像があります。
またゆかりの深い大分市には朝倉にちなんだ「朝倉文夫賞大分市小中学校彫塑展」という彫塑展があります。通称「東洋のロダン」とも呼ばれています。

急性骨髄性白血病のため東京都台東区の自宅で逝去。享年82(満81歳没)。正三位を追贈されました。

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・広瀬 武夫(ひろせ たけお)

1868年7月16日(慶応4年5月27日)から1904(明治37)年3月27日
現在の竹田市出身
大日本帝国海軍軍人

功績ほか
・ロシア貴族社会と交友
・日露戦争の英雄
・日本最初の軍神

観光スポット
・竹田市 広瀬神社、広瀬武夫記念館
岡藩士広瀬友之允の次男として豊後国竹田(現在の竹田市)に生まれました。幼少時に母親と死別し、祖母に育てられました。その後西南戦争により竹田の自宅が焼失し、一家で飛騨高山へ転居しました。17歳のとき海軍兵学校入校し、21歳で卒業しました。

27歳のとき日清戦争に従軍し大尉に昇進。29歳のときロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友しました。その後ロシア駐在武官となり、32歳で少佐昇進。ロシア駐在中にロシア海軍のコヴァレフスキー少将の娘・アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤと知り合い、文通などを通じた交友がありました。唯一の女性との関係はアリアズナとの文通で、生涯独身でした。

帰国後36歳のときより始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事しました。
第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮しました。撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死。
流れ着いた遺体はロシア軍により丁重に埋葬されました。広瀬の戦死を聞いたアリアズナは喪に服したといわれます。

旅順港外にて戦死。享年37(満35歳没)。即日中佐に昇進しました。

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・田能村 竹田(たのむら ちくでん)

1777年7月14日(安永6年6月10日)から1835年10月20日(天保6年8月29日)
現在の竹田市出身
南画家(文人画家)

代表作
・田能村竹田関係資料(帆足家伝来・国指定重要文化財)
・松巒古寺図(しょうらんこじず)

観光スポット
・大分市 大分市美術館
・竹田市 竹田市歴史資料館
岡藩(現在の竹田市)儒医田能村碩庵の次男として生まれました。6歳で素読を始め、11歳で藩校由学館に入学、成績は極めて優秀でした。18歳のときに母と兄を亡くし、翌年田能村家の嫡男となりました。

22歳のとき由学館に儒員として出仕し、最終的には頭取まで出世しました。医業を辞めて学問に専心することとなり、また幕命により「豊後国志」の編纂にも携わりました。26歳のとき父を亡くし家督を相続します。29歳のとき眼病の治療と儒学を学ぶため全国を巡る中、谷文晁、頼山陽らと出会い、以来親交を深めました。37歳のとき病気教養のために若隠居となり、その後は豊後(現在の大分県)と京都や大阪を行き来します。50歳のとき長崎に遊歴し、来舶清人や長崎派の画家から中国絵画の技法を学びました。

田能村は中国元代末期の文人画家たちや北宋の書家、米友仁を敬慕していました。また多くの人物との交流から様々な画風を学んだことで山水図・人物図・花鳥図とその画域を広げ、写実を通して文人画のエッセンスともいうべき写意を表現しました。
代表作の多くが大分市美術館に所蔵され、絵画23件、書跡3件が一括して重要文化財に指定されています。

大坂(現在の大阪市)の藩邸で逝去。享年59(満58歳没)。

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